YASUO KUNIYOSHI DISTURBING DREAM 今、その絵はアメリカの理想と現在地を象徴する
 
 
《安眠を妨げる夢》1948 年 福武コレクション蔵  
国吉康雄展 安眠を妨げる夢 福武コレクション・岡山県立美術館のコレクションを中心に
2023 10.24(TUE)-12.24(SUN)
茨城県近代美術館
〒310-0851 茨城県水戸市千波町東久保666-1 TEL. 029-243-5111 FAX. 029-243-9992
 
茨城県近代美術館Webサイト
 
 
〈休 館 日〉 毎週月曜日/ただし茨城県民の日:11月13日㈪は開館
〈開館時間〉 午前9時30 分~午後5時(入場は午後4時30分まで)
〈入 場 料〉 一般1,000(870)円/満70歳以上500(430)円/高大生730(610)円/小中生370(240)円

 
※( )内は20名以上の団体料金 ※11月13日㈪県民の日はすべての方が入場無料 ※障害者手帳等をご持参の方は無料 ※土曜日は高校生以下は無料 ※茨城県立の美術館(近代美術館、天心記念五浦美術館、陶芸美術館)主催の展覧会で1年間に何回でもご利用いただける共通年間パスポート(一般3,150円/高大生2,100円/小中生1,050円)を各美術館にて販売中

主  催/茨城県近代美術館
共  催/公益財団法人 福武財団
企画協力/ヤマト運輸株式会社
企画協力・監修/国立大学法人岡山大学学術研究院教育学域 国吉康雄記念・美術研究と地域創生講座
協  力/岡山県立美術館、株式会社ベネッセホールディングス、岡山大学文明動態学研究所、同 学術研究院教育学域赤木里香子研究室、同 5DLab.、一般社団法人クニヨシパートナーズ、一般社団法人日米芸術振興協会
後  援/水戸市、朝日新聞水戸総局、茨城新聞社、NHK水戸放送局、産経新聞社水戸支局、東京新聞水戸支局、日本経済新聞社水戸支局、毎日新聞水戸支局、読売新聞水戸支局、LuckyFM茨城放送
 

 
 
 

本展は、茨城県近代美術館、公益財団法人福武財団、ヤマト運輸株式会社、岡山大学国吉康雄研究講座の協働による、産官学の文化・教育事業として企画されました。

 国吉康雄(1889‐1953)は明治期の岡山に生まれ、16歳で労働移民としてアメリカ西海岸に渡りますが、夜間高校で美術の才能を見出され、ニューヨークに移住し、働きながら美術学校に通います。初期にはアメリカ開拓時代を思わせる幻想的な作品で注目されますが、渡仏と生涯一度の帰国、戦争期を経て、その画風は変化し続けます。それは、国吉が生きたアメリカが、アジア系移民排斥運動、パンデミック、大恐慌、二つの世界大戦、赤狩りといった激動の時代であったことと関係します。国吉は反戦や民主主義へのメッセージを作品に込め、美術家の権利運動の先頭に立ちました。こうした国吉の思想や苦悩が現れた、憂いに満ちた表情の女性や暗喩的な静物、色彩豊かなサーカスの道化などは観る者を魅了し、現在アメリカでは、美術家、社会活動家としての再評価が始まっています。
 本展では、油彩・カゼイン画を中心に約170点の国吉作品と、日米の国吉研究と最新資料でその全貌に迫ります。また、坂田一男や小野竹喬など、国吉と同世代の岡山出身の画家の作品も展示し、欧米の美術館で実践される多面的な紹介も試みます。

《逆さのテーブルとマスク》
1940年 福武コレクション蔵
《バンダナをつけた女》
1936年 福武コレクション蔵
《鶏小屋》
1921年 福武コレクション蔵
《ミスターエース》
1952年 福武コレクション蔵
《鯉のぼり》
1950年 福武コレクション蔵
《祭りは終わった》
1947年 岡山県立美術館蔵
 

茨城県近代美術館で開催中の「国吉康雄展-安眠を妨げる夢-」で展示されている章解説と、
展覧会が面白くなる映像作品を公開しています。
詳細は各章のタブ、または映像サムネイルをクリックしてください。

画家の見た夢 〜 画家の安眠を妨げたものはなにか

 
 入口正面の絵に、皆さんはどんな印象を受けたでしょうか。
 油彩画とは違う乾いた絵肌の質感や、薄く透けた多彩な色の層。
 そして、この「劇的な瞬間」は、「どんな結末」を迎えるのか。
 
 絵のタイトルは《安眠を妨げる夢》。原題は‘Disturbing Dream’。‘disturb’の意味は「邪魔をする」ですが、「意図しない偶然」というニュアンスを含み、その語源はラテン語の、「dis=ふたつに・別々に」と「turb=荒れ狂う(嵐の語源ともなりました)」。
 タイトルを思うだけでも様々な「想像」が膨らみます。
 この絵が描かれた「1948年」は、国吉康雄にとって間違いなく「輝かしい年」でした。毎号290万部を売り上げる総合雑誌『ルック』は、アメリカを代表する10人の画家の一人に国吉を選び、アメリカン・アートの殿堂、ホイットニーミュージアム(1931年開館)は、存命芸術家で開催する初めての回顧展を国吉で行いました。しかし、冷戦を背景に共和党保守派が主導する、共産主義者ら(疑いも含む)を糾弾する「赤狩り」が社会の分断を深くしていました。議会での証言を、合衆国憲法修正1条の「表現や思想・信条の自由」を主張し、拒んだハリウッドの映画人10人は、「議会侮辱罪」に問われ、この年、有罪判決を受けています。
 国吉はこの前年から、全米の芸術家が参加する、『アーティスツ・エクイティー・アソシエーション』の初代会長職にありました。この団体は、政治・思想的立場や、表現上のどんなスタイルも拒まず、芸術家の制作と生活に関する経済問題に対処するために設立されたのですが、芸術家の「自由」や「平等」、そして「権利」を守る活動は、政府の関心事となりました。
 
 もう一度、この絵を眺めてみてください。
 何が見えてくるでしょうか。

岡山からアメリカへ 〜 近代化の恩恵とロシアとの戦争の影響

 
 国吉康雄の紹介では大抵、「岡山後楽園の門前町、出石町で生まれ、アメリカで絵の才能を伸ばす」と始まるのですが、国吉が誕生した年の出来事を意識しておくと、多様な視点を得ることができます。なぜなら、大日本帝国憲法が発布され、その高さで世界記録を更新したエッフェル塔がパリ万博でお披露目となり、チャップリンやヒトラー、石原莞爾や柳宗悦らも誕生した「1889年」に、国吉も人生をスタートさせたからです。そして、新設されたばかりの岡山県立工業學校(現岡山県立岡山工業高等学校)で学んだことも近年注目されています。
 近代化を進める日本が掲げた「殖産興業」の実現には、多くの技術者を効率よく養成する必要があり、これを背景に新設されたのが工業學校です。国吉はその染織科で地図や友禅の下絵を描く技術を学ぶのですが、多くの生徒が士族や商人の子供たちだった工業學校に、人力車の車引きの息子である国吉の進学は「異例」だと研究者は指摘します。それを可能にしたと考えられる記述が『岡山市史』にあります。それは、国吉少年の「画才」に関する評判で、町内の絵師が弟子に欲しがったほどだったとあります。
 伝統的な絵画技法に幼い頃から親しみ、学んだことは、のちの作品に現れる線描や視点、塗り残しなどからも想像できます。
 では、この工業學校での学びを断念し、16歳で単身渡米する理由はなんでしょう。
 日露戦争(1904年-1905年)は莫大な借金と不況を日本にもたらし、政府は外貨獲得のため、海外労働を国民に奨励します。そして国吉には、「富国強兵」のための徴兵検査が迫っていました。ロシアとの戦争で多くの若者の訃報と自由の国アメリカの評判に、国吉家は一人息子を送り出す決断をします。

ニューヨークへ

 
 国吉が描いた「瞳のない《自画像》」は、インフルエンザ(スペイン風邪)の世界的大流行が猛威を振るう「1918年」のニューヨークで描かれています。労働移民として渡米した筈の国吉が、画家を志した経緯を見てみましょう。
 
 国吉が英語を学ぶために通っていた高校の教師は、課題で制作した「地図」の精度に驚き、「その才能を伸ばすべきだ」と告げたそうです。果樹園や鉄道の操車場などでの重労働に追われる18歳(1907年)の国吉は、夜間に不定期ながら、ロサンゼルスの美術学校に通い始め、21歳で再び大きな決断をします。アートの中心地であるニューヨークへの移住です。
 国吉は学費を稼ぎながら様々なスタイルの美術学校で学び、27歳(1916年)で、アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(以降リーグと表記)に入学します。「芸術を学ぶ学生の同盟」という、学校の運営も学生で行われるリーグには、国吉に関係したこんなエピソードがあります。
 学友たちの署名活動で国吉はリーグの奨学生になるのですが、その理由は、国吉に作品制作の時間を十分に与えるためだったそうです。
 国吉は、ヨーロッパの美術に造詣の深い教師や多くの機会を与えたパトロンと出会い、当時、ニューヨークに住んでいた「モンパルナスの貴公子」ジュール・パスキンと友情を結びます。しかし、リーグの学友で国吉の初めての個展の実現に奔走したキャサリン・シュミットは、国吉との結婚により、移民法の規定でアメリカの市民権を失います。その一方で、学ぼうとする者への機会の提供やリーグの運営システム、出会った人々の寛容さと繋がりがもたらす恩恵は、国吉にアメリカを深く考えさせながら、日本では考えられなかった「画家への道」を歩ませました。

狂騒と黄金の20年代 〜 パリを経てアメリカと故国

 
 「狂騒の20年代」のパリを、国吉は1925年と1928年の二度、訪ねています。4年に及んだ第一次世界大戦(1914年-1918年)はヨーロッパに深い傷を負わせ、多くの移民、難民を生むと同時に、あらゆる才能をパリに送り込んでいました。
 1928年のパリ行きでは、国吉もパスキンと同じように、パリに拠点を作ることを考えていたようですが、翌年にはニューヨークに戻っています。
 「黄金の20年代」を支えた好景気に沸くニューヨークでは、キュビスムやフォーヴィスムといった、「ヨーロッパで生まれた表現で描いたアメリカは本当のアメリカなのか」という議論が起こり、一方のパリでは、新しく起こったアール・デコなどの様々な運動と表現が混じり合い、大きな文化・芸術の潮流が生まれていました。世界中から集まる才能と都市の熱気に国吉は多くの刺激を受け、パスキンの助言でその美学を転換させ、画風を大きく変化させます。国吉がニューヨークに戻った1929年に開館したMoMA(ニューヨーク近代美術館)は同年、『19人の現代アメリカ画家展』で、国吉の作品を展示します。
 そして、1931(昭和6)年10月14日。国吉を乗せた日本郵船『日枝丸』が横浜港に着岸します。これが国吉、最初で最後の帰国となりました。
 国吉の帰国は、まず、病床にあった父と母を見舞うこと。そして、日本橋三越で開催される凱旋展を成功させるためでした。この開催に尽力したのが、パリで出会った藤田嗣治と、その藤田の紹介で縁を結んだ有島生馬です。
 国吉の帰国した1931(昭和6)年は、社会の緊張が高まった時代でした。同じ歳の石原莞爾が関与した満州事変が起こり、翌年には同郷の犬養毅首相が凶弾に倒れた五・一五事件が起こっています。国吉は帰国を機に、また大きく画風を変え、社会的な役割を担うことにも責任を果たしていきます。

表現を守り、時代の役割を担うために

 
 不穏な時代に国吉は、芸術家を取り巻く社会課題について重要な役割を担っていくことになります。
 ナチス・ドイツが非武装地帯ラインラント(ドイツ西部。ライン川沿岸の一帯)への進駐準備を進めていた1936年2月。国吉も参加した『アメリカン・アーティスツ・コングレス(以降コングレスと表記)』の第1回総会が、「反戦と反ファシズム」などをスローガンに開催されます。この時の議長は画家のマックス・ウェーバー。国吉も執行委員、展覧会委員長、副委員長を歴任し、パブロ・ピカソは第2回のコングレスの総会に、「ヒューマニティーと文明という最も気高い価値を脅かす戦争にアーティストは無関心でいるべきではない」というメッセージを送りました。
 日中戦争が勃発した翌年の1938年。国吉はコングレス主催の展覧会『世界のデモクラシーを防衛する-スペインと中国の民衆に捧ぐ』展のカタログに、「芸術家だからこそ、新しく起こった事態に敏感になることができる」と寄せていますが、ソビエト連邦のポーランド侵攻(1939年)を明確に非難しない、左派系の執行部と対立。同年国吉は、アーティストの経済的地位の向上を目的に、『アン・アメリカン・グループ』を設立し、会長に就任します。アメリカ社会で敵視されつつあった日本人という立場にありながら、作品も変わらず高く評価され、『ゴールデンゲート国際展』では1等を受賞しています。その翌年、MoMAで『What is American Art』と題した講演を行い、表現の自由を脅かし、拡大する人種偏見に対しては警鐘を鳴らします。
 社会活動へのアプローチを更に強めていく国吉の行動を意識して、この章の作品を見ると、痛烈な社会へのメッセージが巧みに隠されながらも、はっきりと匂わせてあることが分かります。

戦争の時代に

 
 一晩で全てが変わってしまった。自分は変わっていないのに。
 
 1941(昭和16)年12月7日(日本時間12月8日未明)、日本軍がアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の真珠湾を急襲し、2400人以上が犠牲となった次の日の国吉の言葉です。
 アメリカ議会は日本との開戦を宣言し、国吉は大統領権限で逮捕や国外追放となる「敵性外国人」となりました。ですが国吉は、ニューヨークに暮らす日系の仲間たちと共に、アメリカに残る決断をします。警察に出頭すると愛用するライカの35mmカメラを警察官の立会いのもと友人に譲り、双眼鏡を提出しました。スパイだと疑われないためでしたが、銀行口座は差し押さえられ、ニューヨークのスタジオに軟禁状態となります。そんな国吉の身を案じたのは、ナチス・ドイツから亡命したジョージ・グロスらアート・スチューデンツ・リーグの同僚と教え子たちでした。国吉のための署名運動が行われ、集まった251名の署名は大統領らに12月22日に送られます。
 
「我々は、国吉氏が完全なる自由のもとにアメリカ美術に貢献し続けること、ならびに、我々と同じく彼も憎悪する、日本、ナチス、ファシストの悪と戦うべく我々を支援してくれることを、心の底から、真剣に願うものであります」『アート・スチューデンツ・リーグ 同僚美術家の信頼についての声明』より
 
 国吉を支持、支援する活動は他にも行われ、日系新聞『パシフィック・シチズン』は、1942年5月11日付紙面で、「熱烈な民主主義の擁護者」と国吉を紹介するなど、日系人社会の要請もあって、これらに応えるように、積極的にアメリカの戦争体制を支援する活動に身を投じていくのですが、この影響は国吉の心を蝕み、作品にも現れるようになります。

祭りが終わって

 
 祭りは終わった。
 戦争も終わった。
 新しい世界を待ち望んだけれど、何もやって来なかった。
 
 作品について語らない国吉が、ホイットニーミュージアムでの回顧展に向けた取材で明かしたのがこの言葉です。
 1930年代の後半以降、《祭りは終わった》に見られるように、国吉は独自のシンボリズムを使った作品を描き、タイトルには哲学的な要素が見られるようになります。戦後、独特の深い背景色に浮かぶのは、憂いを帯びた女性像ではなく、争う犬や昆虫。そして廃墟です。他にも、アメリカ合衆国の独立記念日である「July 4(7月4日)」や「矢印」など、何かを暗示する記号が増えるのですが、《安眠を妨げる夢》のように、空間として曖昧で歪な背景が鮮やかな色彩を伴って主張してくる作品が登場します。
 ヴェールのように透けた色が、パレットナイフで何層にも重ねられた画面からは、それが例え油彩画であっても、カゼインのように乾いていながら、絵自体が発光しているかのような印象を受けます。そして、そうした色たちを背負って立つのは、サーカスの道化師です。国吉の心に、どんな心境の変化があったのでしょうか。
 
 《祭りは終わった》についての言葉には続きがあります。
 
 祭りが終わっていないことが自分には分かっている。
 今日の世界は渾沌としている。
 しかし、われわれは進まねばならない。
 
 1952年、『移民帰化法』が成立し、国吉の妻の市民権を奪い、国吉がアメリカ人となることを阻む障害はなくなった筈でした。しかし、国吉は癌に倒れ、1953年5月14日に亡くなります。63歳でした。
 最後の言葉は、「市民権は?」だったそうです。
 友人は、「美術を愛する私たちすべてにとって、彼は恩人です」と弔辞を読み上げました。

今、国吉康雄を知ること

 
 アートフォーラムを会場とする本展の「終章」では、国吉康雄が誕生した1889(明治22)年から始まる、国吉の人生と社会情勢、美術史を対応させたパノラマ年表を中心に、『福武コレクション』についてや日本での国吉研究黎明期にその道筋をつけた小澤善雄・律子夫妻がアメリカで収集した資料、本展を監修する岡山大学大学院国吉康雄記念研究講座(以降、国吉講座)の研究活動などを紹介します。
 国吉はアメリカの市民権を得て、日本にもう一度帰国することを願っていました。芸術面の活動だけではなく、自身が得たあらゆる知見を日本の復興のために役立てたいと望んでいたのです。その夢は、市民権の獲得同様叶いませんでしたが、その意志は、日米で受け継がれています。
 例えば、瀬戸内海の離島で展開される「アートによる地域振興運動」として世界的に知られる『ベネッセアートサイト直島』の美術作品群の原点とされるコレクションが、『福武コレクション』であることはあまり知られていません。
 そして国吉講座も、『ベネッセアートサイト直島』の活動を手本としながら、国吉研究と顕彰活動を応用した、表現作品を公益コンテンツとして新たな社会基盤とする活動を実施しています。ハンセン病回復者が描いた油彩画作品など、社会的課題の「証言」となる表現作品の保全などです。
 また、ニューヨークではアートによるホームレス問題の認知活動が展開されていますが、このプログラムの中心にいるのは、国吉や日系の在米アーティストに関心を持つ研究者です。
 ここでは、国吉が亡くなって70年となる現在の日本で展開されている、研究・顕彰活動とその発展ともいえるプロジェクトについて考えてみたいと思います。

本を読むように絵画を読む(国吉康雄編・ダイジェスト)(100秒)
国吉康雄展が始まる【ダイジェスト版】(103秒)
国吉康雄展 ワークショップ紹介動画(133秒)
国吉康雄絵画に隠された『謎』(106秒)
2枚の絵から見る国吉康雄の画風の変化(250秒)
国吉康雄作品 高精細スキャン映像(157秒)

同 時 開 催
2023年10月24日(火)~12月24日(日)
■「国吉の現在地をより深く知る」
展覧会に加え、1 階アートフォーラム展示コーナーでは、本展の監修を務める岡山大学国吉康雄記念研究講座の様々な活動や、福武コレクションを活動の原点とする瀬戸内海で展開される「ベネッセアートサイト直島」などの展示を通して、国吉康雄と現代社会の関わり方について紹介します。

 
 

講 演 会 等
会 場:全て当館地階講堂
定 員:各回250名
申込不要・参加無料
 
2023年11月11日(土) 午後1時~午後3時終了
■講演会「アメリカでの国吉康雄の現在地」
講 師:伊藤駿(本展監修 / 岡山大学特任助教)
■鼎 談「国吉研究の第一人者・小澤律子さんを囲む」
登壇者 : 小澤律子(国吉康雄研究家) / 西郷南海子(博士(教育学)・日本学術振興会特別研究員PD) / 伊藤駿
 
 
2023年11月25日(土) 午後1時~午後3時
■講演会「国吉康雄の作品における色彩変化と描画材」
講 師:笠原浩美(筑波大学博士特別研究員・美術家)
■講演会「明治の美術教育は国吉の画業にどう影響したか」
講 師:赤木里香子(岡山大学教授)
■鼎 談「国吉康雄の用いた画法を俯瞰する」
登壇者 : 赤木里香子 / 笠原浩美 / 伊藤駿
 
 
12月23日(土) 午前11時〜 / 午後1時~
映像ドキュメンタリー上映
 「描かれた永遠の現在地〜何が国吉康雄の安眠を妨げるのか」2023年 / 90分
本展監修者の才士真司(本作監督/岡山大学特任准教授)と伊藤駿が取材した国吉康雄の最新研究を、日米の研究者が語る国吉康雄を探求する映像作品を初公開(午後1:00からの回終了後、本展監修者によるトークあり)

 
 

ワークショップ
国吉康雄が岡山の小学校に通っていた明治30年代に使用されていた図画教科書を見ながら墨で絵を描くワークショップや、国吉が制作に使用したものの、今は使われていない「カゼイン絵の具」の体験。国吉作品に出てくる「仮面」の制作や、国吉ポストカードを額装する工作ワークショップを岡山大学の先生と学生が開催します。
*すべてのワークショップにおいて、国立大学法人岡山大学学術研究院教育学域 国吉康雄記念・美術研究と地域創生講座を中心とする方々が講師をつとめます。
 
会 場:全て地階講座室
参加無料
 
① 11月26日(日) 午前10時~午後0時
■「国吉さんが好んだカゼイン絵の具で描いてみる」
国吉康雄は鮮やかな色ですぐに乾く「カゼイン絵の具」を作品に使用していました。今は、保存の簡単なアクリル絵の具に代わり、一般的にカゼインは使われていません。この機会に国吉が使用した絵の具を体験してみませんか?(※絵の具に牛乳の成分が入っています。アレルギーのある方はご遠慮ください。)
定 員:10名(要事前申込[Webのみ]、対象:一般)
*9月26日(火) 9:30~申込受付を開始します
*申し込み多数の場合抽選、10月20日(金)まで申込受付
 
 
② 11月26日(日) 午後1時~午後3時
■「墨で模写する・国吉も受けた明治期の美術教育を再現する」
国吉康雄が岡山の小学校に通っていた明治30年代、図画の授業では教科書に載っている絵をお手本に、墨を使って毛筆で描くことが主に行われていました。明治期の美術教育を研究している岡山大学の教授と一緒に、この頃の図画教科書を見て、毛筆を使って水墨で絵を描いてみませんか?
自由参加、申込受付午後2時30分まで
(参加者多数の場合は、お待ちいただく場合があります。)
 
 
③ 11月12日(日) 午後1時~午後3時
  11月13日(月) 午後1時~午後3時終了

■「お面・額装作りワークショップ」
国吉康雄研究講座が美術館や公民館、お祭りで実施してきた、国吉康雄が描いた作品に出てくる「仮面」を参考に、真っ白なお面に色付けしてオリジナルのお面を作るワークショップや、国吉作品のポストカードを飾り付けする工作ワークショップを開催します。自分だけのお面や額装を作ってみませんか?
自由参加、申込受付午後2時30分まで
(参加者多数の場合は、お待ちいただく場合があります。)

 
 

本展監修者とみる新たな探求と発見ツアー
講 師:才士真司、伊藤駿
 
会 場:全て企画展示室
申込不要・要企画展チケット
 
① 10月24日(火) 午前11時~ / 午後2時〜終了
② 11月12日(日) 午前11時~ / 午後2時〜終了
③ 12月24日(日) 午前11時~ / 午後2時〜